今回は少し辛口です。
仕事として防災にかかわるようになり40年近くが経ちましたが、これだけいろいろな災害の現場や防災の取り組みに関与してもなお、私たちの目指すものがどういうものなのか、私にはよく見えていない気がいたします。何とも情けない話です。
その原因の一つとして、私たちが目指す望ましい社会像を今もって誰も示しておらず、それでもなおいろいろな取り組み行われ、制度が作られ、我々がそれに頼らざるを得ないという実態があります。地域防災の取り組みがまさにその代表的なものです。社会が変わることが求められても、どう変わればよいのか、誰もその青写真を示すことができていない、それでも走り続けなければならない、そのようなつらい現実があります。具体的な例をあげましょう。
防災科研もそうですが、いま全国各地で実に多くの防災関連の研究者が地域づくり、まちづくりの取り組みを支援しています。それらは一見して地域が「良く」なっているような印象を受けます。でも本当にそうでしょうか?少し離れて眺めてみると、
1)その取り組みは永続的なものなのか?現在かかわっている人材がいなくなったらもう続かなくなってしまうのではないか。いまは動いているけれど、10年後、20年後の地域社会像を踏まえたうえでの取り組みなのか。
2)その取り組みは本当に地域の主体性の元に行われているものなのだろうか。結局は行政や研究者、あるいは利害関係のある企業などが見栄えよく「お膳立てした」ものの上に行われているものではないだろうか。
3)防災力が高まることばかり喧伝されているが、それによるデメリットまできちんと議論されているのだろうか。防災力が高いこと=よい社会という、一方的な価値観の押し付けになっているのではないか。
などと感じてしまいます。(このことに関するご批判、ご意見がありましたら是非ご教示ください。)
私が個人的に思うのは、研究者や行政が地域社会とかかわりを持つような活動を行うのであれば、何をやるにもまず最初にその地域にどのような未来をもたらすかについて、ある程度の指針となるようなものを明示すべきではないかということです。将来予測的なもので定量的に評価が難しい部分はあるとは思いますが、その部分では定性的なものでも構わないと思います。それが「未来に責任を持つ」という行政や研究者の役割ではないかと思います。
ちょっとうがった見方をすると、今各地で行われている防災への取り組みを観察すると、
1)行政が政治的な圧力で地域に「何か」しなければならないという流れ(方向性)が生まれる。(背景に地方創生だとか、いろいろなものがあるとは思います。しかし多くの地域では行政の現場担当者は「上から」言われたので仕方なくやるという印象が強くあります。)
2)困った担当者が地域にある大学やわれわれなどの研究機関やコンサルタント企業などに相談を持ち掛ける。そこで費用の問題も認識され、研究機関のほうは研究業務と絡めて支援が行えるならばやりましょうという方向を見出し、民間企業のほうはとりあえず先行投資と考え、将来は実入りがあるとみこまれた場合には動き始める。
3)住民の中に知恵のある人たちがいて、活動を始めたものの自分たちだけではできることに限界があることに気づき、行政に支援を求めた時にこのタイミングが合うか、または行政からの働きかけを「渡りに船」となった時に、声を掛け合って動きが始まる。しかし、地域にはいろいろな関係者がいて、結局は全員参加が難しいという「壁」にはぶつからざるを得なくなり、いつものメンバーだけで集まるようになる。
かくして、ワークショップに代表される防災や地域づくりに関するいろいろな取り組みが行われているのではないでしょうか。もちろん、ここにあげたような流れとは無縁で、専ら自分たちだけで地域問題を積極的に解決しているという本当に理想的な地域もあることは確かです。でもそれは決して多くない、まだまだ限られています。
私たちは戦後の自由主義、民主主義浸透の過程で、物事には損得があり、得にならないことはやってもしょうがないという風潮に染まりすぎているのかもしれません。今一度損得ではなく(結果的には損は目指さないのかもしれませんが)、まずは何を理想とするのか、何を目指すのか、私たちが望ましいと思う未来の姿、作り出したいと思う地域社会像をある程度描いてから、行動を考えるべきではないかと思う今日この頃です。