地区防災計画制度がスタートしましたが、この「地区」なるものが明確に定義されていないこともあって、専門家の間でもいろいろな意見が飛び交っているようです。私自身はむしろあまり明確でないほうが自由度を増し合理的な災害対策を考える大きなメリットではないかと思っているくらいなのですが、中には基礎自治体(市町村)のほうで勝手に地区区分を行い町内単位やその集合で「地区」を規定してしまっているところがあったりする話を聞くと、やはり市民主導で主体的に物事を進めるのを日本社会はあまり得意としていないのかなと思ってしまいます。
地区がどういうものであれ、確実なのはこれが「一定の地理的空間を何らかの事情で共有する集団」における防災計画であることです。そこには当該「地区」に対する構成員の帰属性が問われることになります。どこであっても「私はそこ(地区)のメンバーである」人たちが主体的に集まらないと、計画策定の集団は構成されないのではないかと普通は思います。ところが肝心の地区に対する帰属意識は、都市部においては近年低下しているのではないかと思われる指摘も、メディアではしばしば取り上げられます。今回はこのことについてちょっと考えてみましょう。
私たちは生まれてから死ぬまで、必ず「何か」に帰属しているはずです。なかには天涯孤独で誰の世話にもならずに育ったのだという人もいるかもしれませんが、その人でも子供時代は一人では生きられたはずもなく(オオカミに育てられた少年なら別ですが)、必ず「他者」とかかわりを持つ過程で「何処か」に帰属していたはずです。一般的に私たちの人生を振り返ってみますと、幼児期には親に、学齢期には学校に、社会人になってからは企業や組織に「帰属」する形で人生を過ごしてくる方が多く存在しています。そして定年になって帰属するものが存在しなくなると、いわゆる「地域」デビューとなって、初めて地元の人たちに溶け込むことが大変なお父さんたちが登場してくるわけです。私もそろそろその年齢ですが、どうしたものかと思うこの頃です。
しかし、あらためて考えてみますと、どこかに帰属しているということは一定の安心感がある反面、いろいろ煩わしいことも少なくないのではないかという思いも頭をよぎります。同時に、どこかに帰属しなければ、そこでの発言権もないというのも、今日の生活環境からすれば果たして適切なのだろうかと思えないこともありません。年中移動を繰り返している現代人にとって、あなたの地元(故郷)はどこですかといわれても、なかなか特定できなくても不思議ではないわけで、それを持って帰属する場所がないと言い切ってしまうのもどうかと思ったりします。帰属意識も時代とともに変わるわけで、昔ながらの地元意識に依拠した防災では限界があるのも現実でしょう。また、市民とか住民とかコミュニティとか、なかな多義性に富む用語をごちゃ混ぜに使って私たちでもありますので、あらためて「地区」で物事を考えることがなかなか難しいのが今の私たちなのかもしれません。
今回、第5回の防災コンテストが無事終わり、新たな年度で第6回の防災コンテストを始めようとしています。このコンテストはドラマ部門とマップ部門とに分かれていますが、いずれもどこかの「地区」に特化して作品を作っていることが求められています。なかには地区に特化しない作品を応募されてくることもあるのですが、評価のポイントにはまず第一に「地域の災害特性や防災対策の現状、地域加地について調査し理解していること」が挙げられています。また最後の評価点ですが「作品に含まれているメッセージが地域に伝わること」があるので、メッセージ性も地域にこだわっていることが明確になっています。第6回ではどのような「地区」へのこだわりが見られるか、それも私たちの注目しているポイントの一つです。