今年は阪神淡路大震災から20年目ということで、この20年の「変化の大きさ」については以前このブログでも記事を書きました。あらためて調べてみると時代の変化はあまりに大きく、もしいま1995年の世界に戻ったとしたら、私たちは果たして快適に暮らせるだろうかと思うほどです。携帯電話もありませんし、メールも使えませんし、交通機関共通のICパスもありません。テレビはアナログでDVDもありません。1995年の世界では電車の中でみんなが下を向きながら携帯を操作しているなどという場面は想像もできませんでした。そう考えるとこれから20年先の我々の生活は格段に変化していることは想像に難くありません。防災を考える上で、「今の防災」も確かに大事ですが、「未来の防災」を考えておくこともそれ以上に大事ではないかと思います。それにはまず「未来の社会がどうなっているか」をある程度想像しておかねばなりません。
まず建物やインフラなどの性能はどうなっているでしょうか。最近でも免震ゴムのデータ改ざん事件があって、問題がないわけではありませんが、今のペースで経済活動が続けば、20年後の2035年にはほとんどの構造物が新耐震基準を満たすようになっており、さらに多くの木造建物は2000年以降に建てられたものに更新されているので、地震についていえば今よりはだいぶ安心感が高くなっているでしょう。しかしこれもまた社会経済の状況に強く依存するので、不況が続きインフラの更新もままならず、荒れた国土の中で大災害を迎えるというような事態にはしたくないものです。
情報についてはどうでしょうか。いまは緊急地震速報に代表されるように、いろいろな防災アラートがさまざまなルートで供給されるようになりましたが、これもさらに便利になっているでしょう。携帯端末は小型化し、どこにいても危険を回避できるような、きめの細かい情報が出てくるようになっているでしょう。もしかすると個々人に届く段階で、その人の事情に合わせて最適化された情報に変化されるアプリケーションが開発されているかもしれません。
新聞やテレビはもうその姿を変えているでしょう。誰もがコンパクトな携帯端末を持ち、そこで自分に必要な情報だけを引き出して利用しているでしょう。そのような社会ではいわゆる「現金」は姿を消しているかもしれません。セキュリティの問題がしっかりしていれば、現金を持ち歩く行為はむしろ危険な過去の出来事となり、振り込め詐欺も姿を消していることでしょう。自分の経済状態も常に携帯端末でリアルタイムに確認でき、常に最適なアクションが取れるようになるでしょう。もちろんリアルな買い物なども実際には行かずに済ませられそうです。今でもネットショッピングですべてを済ませる人がいますが、それがもっと進み、スーパーはただの倉庫になり、そことリアルタイムでつながってネットで現物を確認しながら買い物を進めることができるようになるかもしれません。バーチャルな技術が進めば、家にいても品物を手に取るように確認することは十分可能になるでしょう。
車や列車など移動手段はどうなっているでしょうか。列車は環境にも優しい移動機関ですからまだ残るとしても、ガソリン車はもう姿を消しているかもしれません。少なくとも燃料電池車や電気自動車中心の社会に変わっていることは確実だと思います。都心の空気は格段にきれいになり、排気ガスによる環境問題など嘘のようになっているかもしれません。ただ移動するために生じるリスクが自動運転などの技術やインフラの整備でどこまで実用化されるか、期待が高まります。少なくとも高齢者が圧倒的に増える社会では、移動に伴うリスクはできるだけ減らしておきたいものです。
子供たちの数はぐっと少なくなり、いわゆる学校の機能は大きく見直しが迫られそうです。リアルな授業は極めて少なくなり、義務教育段階の生徒の学習は自宅における通信教育が主体になるかもしれません。実際に生徒が集って教師と一緒に時間を過ごす従来型の授業は体育や美術、音楽など体を使うものに限られることになり、そのためだけに週に2日ほどは集中的に集まることがあるかもしれません。今でも子供の数の減少で、学区自体の統廃合が急速に進んでいるのですが、それはますます加速し、学校が従来型の施設を全部備えるものではない、新しいスタイルになっているかもしれません。当然ですが学校防災も大きくその姿を変えるでしょう。既に避難所としての学校の役割は失われているかもしれません。
さて、こうやっていろいろ思いをめぐらしていると、私たちの未来は明るいといえるのでしょうか?それともこのような人と人との関係も見えづらくなっている社会は決して明るいとは言えないのでしょうか?たった20年先のことでも、いろいろ思いが膨らんでしまいますね。