JR福知山線尼崎駅手前で発生した列車脱線転覆事故から9年が経過しました。事故が発生したのは2005年4月25日の午前9時18分ごろ、通勤通学客のための乗客を満載した快速列車が、JR尼崎駅手前のカーブで脱線し、線路に隣接したマンション1階の駐車場部分に突っ込んで停まりました。107名の犠牲者を出す大変痛ましい事故でしたが、この原因背景を探るべく、先般NHKがBBCなどと共同で大変有意義な番組を制作しオンエアされましたので、ご覧になった方も多いかと思います(BS1スペシャル 「Brakeless~JR福知山線脱線事故9年~」)
この事故は私も現場に足を運んで事故対応にあたった関係者の方々に直接話を伺ったので、とても印象にのこるものでしたが、今回のテレビ放送でも触れられていたように、事故の背景として日本社会が持っているある特徴(番組ではこれを柳田邦男氏が日本病といっていました)、特に几帳面さと生真面目さがリスクを大きくしているのではないかという点は大変気になるところでした。時間に遅れてはいけない、ミスをしたら些細なことでも報告しなければならない、どこかで誰かが責任を取らなければならない、というようないわばリスクに対するがんじがらめの社会背景が、事故そのものの根源にあるということは、ありとあらゆる分野でもいえることのように思います。それがストレスフルな社会を形成しているとしたら、豊かではあっても決して幸せな国とは言えないでしょう。
地域防災の現場でも、地区防災計画が認められ、行政界よりずっと小さな地域単位で住民の意思に基づいて自由な裁量で災害対応のルールが検討できるようになりました。一方ここでも必ず議論になるのは責任の所在に関する点です。地域のリーダーが自分(たち)の判断で自らの避難や対応を決めたときに、それによって生じた不利益(たとえば避難中に生じた事故やトラブル)の責任はだれがとるのかというものです。私は消防や警察などの危機管理のための職業集団にあっても、他者のリスクに対する責任は自ずから限界があることは明らかですので、責任範囲をはじめから明示できる範囲は少ないと思っています。よくあることですが、防災のための責任論を中心に議論が始まってしまうと、そもそも防災のためのワークショップは先に進まなくなってしまうものです。人を責めてあらゆるものに責任を転嫁する社会ではなく、自ら責任をとって行動できる社会にする、なかなか難しいですが意識レベルから変えていかねばならない時期に来ているように思います。