東日本大震災をきっかけにして、全国各地の地震被害想定が次々見直され、従来想定されていたよりも大きな地震動を前提とした被害の評価や、それに基づく地域防災計画の策定が進んでいます。想定外を少しでも減らすためにこのような傾向が強まっているようですが、結局は被害想定の値が何割か増えただけとなり、やるべきことが変わらなければ何も改善されないで終わってしまう恐れを感じています。体制を大きくしたり、備蓄を増やしたりするのではなく、現状の防災力では対応しきれない事態に対しては、連携やネットワークを改善し、現状でも乗り切れるようまだまだ多くの工夫ができる余地があるように思います。
阪神淡路大震災以来、「防災」が「減災」と表現されるようになり、ややもすると「努力しても防げないものはせめて減らすのだ」と言わんばかりで「減災」は防災関係者の免罪符的言葉になった感も否めませんが、減災が本当に減ったことになっているのか、私たちはきちんと科学的に検証する必要があります。
確かに「減災」という表現は「防災」と比べると「現実的」な考え方なのかもしれません。自然に比べれば人間の力など取るに足らないものですから、防ぐことは無理なのかもしれません。それでも私たちは災害によっていきなり命を絶たれる人がいるこの現実に対して、なんとか防ぎたいと努力を傾注していくべきではないかと思うのです。その意味では「防災」という言葉は極めて重要な災害に対する挑戦を表す言葉であり、人類にとっては高邁な目標でもあります。
歯に衣着せぬ発言で人気のある某政治家が最近口を滑らした(本人はそう思っていないかもしれませんが)ことで世間はかまびすしいですが、過去の出来事の個人的解釈を語るよりも、これからどういう未来をつくっていきたいのか、それをもっと語って貰わなければ私たちは未来をその人たちに託すことができない気がします。平和はどうすれば作れるのか、戦争はなぜなくせないのか、最近の政治家はこのような基本的なテーマについて高邁な理念や目標を語る人がいなくなりました。言質をとられることを嫌ってみんなが「現実的」な発言しかしないとなると、日本の未来には夢も希望も託すことができないのではないでしょうか。