来年3月、仙台で開催される国連世界防災会議で決定される2015年以降の世界防災力向上のための枠組みにおいて、日本がどのような貢献をすべきかということを土砂災害分野から議論することを目的として、京都大学を会場に国際フォーラム「都市化と土砂災害」が開催されたので参加してきました。今日このタイミングで土砂災害が取り上げられれば、当然ですが本年8月に発生した広島市での死者74名に上る土砂災害を中心に議論されざるを得ないわけで、副題にもその旨ちゃんと書かれています。科学的、技術的に見て、この災害がどういうプロセスで起きたのかという部分はかなり良く解明されるようになったようです。つまり、今回の崩壊発生箇所で土砂がどのように動いて行ったのかについてもモデルでよく説明できるようですし、また降水のほうも3日前からの大気場のシミュレーションで、そこに雨が集中的に降ることはかなりリアルに再現できるようです。となると、当然疑問が出てくるのは、それほどまでに分かっているのであれば、なぜ事前に(災害発生前に)予告ができないのだろうかということです。事前に防災のコミュニケーションができなければ、いくら優れた再現モデルができたとしても何の価値もないという見方も生まれるでしょう。
地球上で起きる多くの自然災害は、それを精緻なモデルで説明しようと思えば、ある程度可能になると思いますし、そのための技術はかつてないほど進んできています。これをどんどん推し進めれば、そのうち地震予知すら可能になるのではと考えている研究者もいます。つまり地球をまるごとコンピュータモデル化し、極限的に精度を高めて未来を予測するという方法です。そこまでいかないまでも、私たちはずっと精度の低い天気予報でも、一定の社会的合意の枠内で活用しています。明日の降水確率は午前中が何パーセントで、午後が何パーセントだから、傘を持って行こうという判断は、その典型的なものです。ただ、ここでの判断は個人個人の自己責任にゆだねられたものです。しかし土砂災害のような命の危険に直接つながるものは、その判断のよりどころとなる予測値を不断に出すことが果たして適切かどうかという点は、ほとんど議論されていません。結局、出したものの被害が出なかったとなること(オオカミ少年化)を恐れるために、行政は消極的にならざるを得ないでしょうし、市民のほうも、その程度の精度でも構わないから出してほしいと望む声は、長く続かない気がします。
今回のフォーラムでもたとえば防災教育の重要性を指摘する声はあります。途上国ではまだ防災に関して多くの誤解や迷信がはびこっていて、それは被害を少なくすることを妨げる大きな要因になっていると思います。しかし日本について見れば、世界トップクラスの高度な教育環境が整備され、市民の防災に対する知識はとびぬけて高い水準にあります。実際、地域の防災ワークショップなどでお会いする方々はかなりの知識をお持ちの方で、時には我々以上に防災の知識がある方も少なくありません。この国においては、第一に重要なのは教育ではなく、リスクに向かい合う姿勢の問題ではないかと思います。リスクを冒すか、リスクを避けるか、あるいはリスクを他のものに転嫁するか、リスクにはさまざまな対処方法がありますが、それを決めるのはリスクにさらされている当事者自身であって、行政任せや他人任せにしている社会は、やはり何か大事なところが欠落している社会という印象がぬぐえません。自分のことは自分で決める社会、そのような「大人」の社会になるにはどうすればいいのか、私たちの意識を足元から変えていく必要がありそうです。
