災害が発生し人命救助が一段落すると、次はまず住むところが問題になってきます。人間は最低限の機能を満たした「住まい」がなければ生きてゆけません。いま東日本大震災の被災地でも住宅再建については地域や個人の事情が複雑に錯綜して、さまざまなケースが出てきています。
どこの国でもそうですが災害時の住宅対策は不確定な要素が多いために頭を悩ます問題となっているようです。私達は諸外国の住宅政策について高い関心をもってみることはなかなかしませんが、社会福祉の一環として住宅政策をとらえたときには、たとえば日米ではその基本的なポリシーの違いがあまりにも大きく、相互理解しがたいような点もあります。宗野隆俊氏の「近隣政府とコミュニティ開発法人-アメリカの住宅政策に見る自治の精神」は、米国の自己責任の原則が住宅政策でも強く貫かれていることがわかります。その象徴的な表現は「貧困の原因は個々人の能力と努力の不足に帰せられる」というもので、まさにどのような家に住むかはその人の努力が反映した結果の表れという感じがします。危険なところに危険な家を建てて住んで、災害でひどい目にあっても、それはその人の責任なのだから仕方がないといわれれば返す言葉もありませんが、自然災害の多い国でもある日本では、それだけで済ますにはちょっと考えなければならない点も多くあります。
どこの国でもそうですが災害時の住宅対策は不確定な要素が多いために頭を悩ます問題となっているようです。私達は諸外国の住宅政策について高い関心をもってみることはなかなかしませんが、社会福祉の一環として住宅政策をとらえたときには、たとえば日米ではその基本的なポリシーの違いがあまりにも大きく、相互理解しがたいような点もあります。宗野隆俊氏の「近隣政府とコミュニティ開発法人-アメリカの住宅政策に見る自治の精神」は、米国の自己責任の原則が住宅政策でも強く貫かれていることがわかります。その象徴的な表現は「貧困の原因は個々人の能力と努力の不足に帰せられる」というもので、まさにどのような家に住むかはその人の努力が反映した結果の表れという感じがします。危険なところに危険な家を建てて住んで、災害でひどい目にあっても、それはその人の責任なのだから仕方がないといわれれば返す言葉もありませんが、自然災害の多い国でもある日本では、それだけで済ますにはちょっと考えなければならない点も多くあります。
「家は誰のものか」という問いかけをすれば、家は持ち主のもの、所有権のある人のものとなるのですが、災害時を考えると家には同時に公共財としての性格があることを私達は忘れがちです。その家の安全性が不十分だったために周囲に迷惑をかけるという事態は、地震火災のような事態を考えれば容易に想像がつきます。住宅の耐震性が高ければ火災も起こりにくいことから、専門家は以前から耐震性確保が第一と声を出してきました。しかし自治体が耐震診断の無料化や耐震改修費用の補助制度などを導入しても、なかなか進まないのが実情です。このような中で国土交通省がデパートや病院など大規模な建物の耐震診断を義務化する法律改正を目指すという報道がされています。これ自体は歓迎すべきものと思いますが、もし1981年以前の建物(旧耐震)のみについての診断であれば、出来ることならそれ以降に建てられた建物(新耐震)についても、希望すれば低廉な費用で診断できるシステムを作るべきだと思います。「新」耐震といっても、最も古いものはすでに30年が経過し、劣化は日々進んでいます。
9月1日の「防災の日」制定の契機となっている大正12年の関東大震災で家を失った勤労者の住宅確保のために建てられた同潤会アパートの最後のものとなった「上野下アパート」(下写真)が今年の春(5月)にも取り壊されることになったそうです。今年は関東震災から90年目になりますが、コンクリート建物の長寿命の証明ともなったこのアパートの性能を、新しいマンションが下回るなどという笑えない事態とならないよう、建設業界にはきちんとした品質の確保をお願いしたいものですね。

前を通るたびに興味津々なんだけど、住んでいらっしゃる人にとってはどうなのでしょうか。因みに取り壊された後には14階建てのマンションが建てられるそうです。
前を通るたびに興味津々なんだけど、住んでいらっしゃる人にとってはどうなのでしょうか。因みに取り壊された後には14階建てのマンションが建てられるそうです。